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メトロポリタン美術館 その5

Museum
前回は印象派を乗り越えていった画家としてセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、スーラの作品を見ました。印象派世代がだいたい1830年代生まれとすれば、彼らはだいたい1840-1850年代生まれ。今日は1860年代以降に生まれた画家たちを見ていきましょう。

Serena_pulitzer_lederer_2Gustav Klimt, Austrian, 1862-1918, 「Serena Pulitzer Lederer」, 1899
クリムト(1862-1918)はオーストリア帝国の首都ウィーンに生まれました。オーストリア帝国は16世紀来神聖ローマ帝国の帝位を独占したハプスブルク家が代々治めてきたハプスブルク帝国。首都ウィーンでは貴族文化が栄えました。モーツァルトやベートーベンが活躍した音楽の都です。

19世紀半ばにウィーンは産業革命を経験します。1848年在位のフランツ・ヨーゼフ1世は大規模な都市改造を行いました。空前の建築ブームで多くの芸術家が活躍のチャンスを手にします。

1886年弱冠24歳のクリムトはウィーンのブルク劇場装飾という大きな仕事を与えられ、このチャンスをものにしました。その後名声を高めていくのですが、彼は保守的な芸術家の枠にはまりこむような人間ではありませんでした。

1890年代ウィーンのある作家が奇しくも言いました。「未来は周りに花開いているのに、我々ははいまだに過去に縛られている。」
当時のフランスとオーストリアを比較した言葉ではないでしょうか。

Photo_15
Gustav Klimt, Austrian, 1862-1918, 「Serena Pulitzer Lederer」, 1899
このまま行けばオーストリア美術界の中心人物となっていたであろうクリムトは1897年保守的な美術協会を脱退、ウィーン分離派(ゼツェッション)と呼ばれる独自の組織を創設したのです。

クリムトは官能的な女性性の表現と幻想的装飾を象徴的に融合した絵を描き、独特の表現は彼を彼たらしめています。調べてみればやはり相当な女好きだったよう。とりわけ彼の作品でよく描かれる義妹エミリー・フレーゲとは20年以上に渡って密会を続けたそうです。

上の写真、クリムトの作品にしては珍しく清楚な女性で思わず見とれてしまいましたが、これはエミリー・フレーゲを描いたものではありませんでした。

Photo_17Henri Matisse, French, 1869-1954, 「View of Collioure」, 1907-8
アンリ・マチス(1869-1954)は絵画史上傑出した画家です。ピカソがセザンヌを乗り越えていったように、マチスはゴッホやゴーギャンを乗り越えていきました。

彼は北フランスの町カトーで生まれます。父は穀物商。当初法律家を目指して勉強し、18歳でパリに出ます。もともと絵が好きだったのでしょうか?弁護士事務所で働くかたわら、絵画教室に通い、毎朝6時から1時間半ひたすら石膏のデッサンを描きました。

画家を目指したのは21歳で虫垂炎を患った時。母親からの絵具のプレゼントがきっかけでした。

パリでは当初古典的画家であるアドルフ・ブーグローのもとで学びます。しかし退屈な画風に幻滅していきました。

DanceHenri Matisse, French, 1869-1954, 「Nasturtiums with the Painting “Dance”」, 1912
次に出会った師匠ギュスターヴ・モロー(1826-1898)がマチスに好影響を及ぼします。

モローは国立美術学校エコール・デ・ボザールの教師でした。当時ほとんどの教師たちが新しい芸術に対して偏見をもっていたのに対し、彼は伝統的方法にこだわる必要はないと教えます。とりわけ色彩の重要性を説きました。学生には街にでて庶民の生活を題材にするよう勧め、印象派以降の新しい芸術に触れるよう勧めます。

しかし画家としての出発が遅かったマチス。ルーブル美術館へ通い、巨匠の作品を模写することで基礎を磨くことも怠りませんでした。

マチスは当初から突飛な作品を描いていたわけではありません。やわらかい色調でしたが基本を大切にする画風は批評家にも受けが良く、1896年27歳にしてサロンへ初入選します。サロンへは5点の作品が入選し、そのうちの一枚は大統領が購入、サロンの準会員にも選ばれるなど、順風満帆な滑り出しでした。

Laurette_2Henri Matisse, French, 1869-1954, 「Laurette in a Green Robe, Black Background」, 1916
マチスは生前に画家としておおいに認められ、おおむね波乱のない生涯を送りました。しかし1897年から10年間は厳しい時代だったと言えます。1897年のサロン出品作品がひどく非難を浴びます。印象主義的画風だったためです。支持者を失い、さらには恩師ルオーもがんで亡くなります。

でもこの10年間にマチスは多くの出会いを経験、独自の画風を確立し、成功の階段を登っていきます。まず印象派の父的存在だったピサロが彼にセザンヌの絵を紹介します。セザンヌの絵から対象の本質を描くこと、余計な観念に囚われる必要のないことを学びました。

1904年夏、南フランスのサントロペでポール・シニャックと出会います。シニャックはスーラの信奉者であり、点描画法を引き継いだ画家。マチスは点描画法を取りいれますが、これには満足できませんでした。

Photo_2 Henri Matisse, French, 1869-1954, 「Marguerite Wearing a Hat」, 1918
1905年の夏は南フランスのコリウールでアンドレ・ドランと過ごします。点描画法に嫌気がさしていた彼は、ドランと色彩について連日議論しました。そして固定観念に囚われない自由な色彩で描くことにしたのです。

その年の秋に開かれたサロン・ドートンヌの主役はマチス、ドラン、ブラマンク、マルケたちでした。常識を逸脱した色彩の適用、強烈な原色の色使いは100年前の画壇で理解されるはずもなく、批評家たちによって“フォーヴ(野獣たち)”と呼ばれました。

この年もうひとつ重要な出会いがありました。ガートルード・スタインという女流作家。彼女はレオ、マイケルの兄たちとともに当時もっとも大胆な絵画収集家でした。スタイン家はマチスやピカソといった新進芸術家の理解者であり、重要なパトロンでした。当時苦しかったマチス家の財政もスタイン家の保護によって安定していきます。

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Henri Matisse, French, 1869-1954, 「The Goldfish Bowl」, 1921-2
1906年にはボルチモア豪商の娘エッタ、クラリベルのコーン姉妹が彼の作品を収集し始めます。彼女たちは500点以上ものマチス作品を集め、それらは現在ボルチモア美術館に保存されています。

セルゲイ・シチューキンの保護も受けました。シチューキンは18世紀来続くモスクワ豪商の出身。1890年代から近代絵画を収集しはじめ、1900年代に入るとマチスやピカソといった当時評価の定まらない先鋭画家の絵に目をつけます。1909年彼はマチスに自宅に飾る大壁画を依頼します。それが現在エルミタージュ美術館に保管されている「ダンス」です。

マチスはこれら高い審美眼をもつパトロンたちに恵まれて、成功の階段を登っていったのです。

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Henri Matisse, French, 1869-1954, 「Reclining Odalisque」, 1926
1921年以降マチスは公に認められるようになりました。作品はフランス政府によって買い上げられるようになり、1925年には勲章を与えられました。

マチスはゴーギャン以上に遠近法を排除し、ゴーギャン以上に対象に制約されない色彩で絵を描いたと評価されています。マチスがある部分に色を塗る時、対象固有の色ではなく、周囲との色彩旋律を第一に考えました。したがって常識では考えられない色が使用されたのです。

ただし1920年から15年間ほどは遠近法的な空間描写と光と陰で肉付けされた身体表現を行う時代がありました。それを「オダリスク時代」というそうです。

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Henri Matisse, French, 1869-1954, 「Odalisque with Gray Trousers」, 1926
「オダリスク時代」はマチスの年齢でいうと50~60代。マチスにしては自然主義的な時代の絵です。
84歳まで生きた彼はその後空間描写の単純化、色彩の単純化を極めていきます。70歳から車いす生活を強いられた彼は色紙を貼り付ける“切り絵”に熱中したそうです。

Girl_in_profilePablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Girl in Profile」, 1901
近代絵画の巨匠マチスの生誕から12年、スペイン南部の港町マラガでもう一人の巨匠が産声をあげました。パブロ・ピカソ(1881-1973)です。

マチスが対象固有の色に縛られない革新的色彩画家だったのに対し、ピカソは対象固有の形態に縛られない革新的造形画家でした。

父は食堂の装飾を手掛ける画家。ピカソは天賦の才能に加え、理想的な家庭環境に育ちます。父は絵画教師の職を得たためスペイン北部の町ラ・コルーニャに移り住みます。息子が13歳の時でした。ピカソの底知れぬ才能に感服した父は画材一切を息子に与えてしまい、以後絵を描くことを止めてしまったと言い伝えられています。

その翌年(1895年)父はバルセロナのラ・ロンハ美術学校の教師として迎えられます。ピカソは14歳であったにも関わらず、父の計らいでこの学校の高等部の試験を受けることになりました。通常なら1か月与えられる人物画の試験でしたが、ピカソは一日で仕上げてしまいます。作品の完成度も教授陣を驚かせるほど高いものでした。

Photo_7Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Woman Ironing」, 1901
2年もするとピカソは伝統を重視する学校が窮屈になってきました。16歳の時(1897年)マドリードへ行き、王立美術学校に入学します。

そこで彼は貧乏を体験。健康を損ない、翌年やむなくバルセロナへ戻ります。17歳になっていたピカソはキャバレー「エルス・カトレ・ガッツ(4匹の猫)」に出入りするようになり、ここで親友カルロス・カサヘマスと出会います。

1900年10月、19歳のピカソはカサヘマスとともにパリを訪問。この年開催された万国博覧会でピカソが作品を出していたからです。ピカソはかの地で20歳の誕生日を迎えました。ふたりはモンマルトルに部屋を借りて数ヶ月間、精力的に美術館を巡り、また絵を描きました。12月ピカソはスペインへ戻りましたが、カサヘマスはパリに戻ってしまいます。パリで一人のモデルに恋をしてしまったためです。果たしてその恋の結末は?

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Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「The Blind Man's Meal」, 1903
カサヘマスの恋は実りませんでした。彼は失恋を苦にあるパーティの会場でピストル自殺してしまいます。
この悲しい知らせはピカソにとって衝撃でした。その後数年間ひたすらブルーな絵を描き続けます。「青の時代」です。

この頃知り合ったのがフランスの詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)。ピカソの青い作品に惹かれた彼はピカソと親交を持つようになります。

1902年ピカソは再びパリに出てきます。マックス・ジャコブと共同生活をしました。
1903年にはバルセロナに戻りますが、依然として青い作品造りに没頭していました。
1904年23歳になったピカソは再びパリへ。マックス・ジャコブが「洗濯船」と名付けたラヴィニヤン街13番地の家に腰を下ろし、ついにこの地に定住します。「青の時代」も終わりに近づいていました。

At_the_lapin_agile
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「The Blind Man's Meal」, 1905
「洗濯船」では貧しい生活でしたが交友関係が広がりました。アトリエには貧しい画家や彫刻家、詩人、役者が群がっており希望に満ちた場所でした。彼はパリで希望と幸運を掴んでいきます。「ばらの時代」の始まりです。

La_coiffurePablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「La Coiffure」, 1906
ピカソは「洗濯船」で恋人を得ます。フェルナンド・オリビエという名の女性で、彼女はピカソの希望でした。フェルナンドと暮らすようになってから彼の画面には「ばら色」が使われるようになります。

赤や黄色、ピンクといった暖色はピカソの貧しい生活を好転させていきました。彼の絵に目をつけた人々がいたのです。アメリカ人のレオ・スタインとガートルード・スタインのスタイン兄妹でした。どこかで聞いた名前ですねえ。

そうです!前述したマチスのところでも出てきました。世界の天才画家にいち早く目をつけたこの兄妹、どんな人たちだったのでしょう?

兄妹の父ダニエル・スタインは鉄道会社の役人で土地や電車への投資で財を築いた人。でもレオとガートルードがお金に不自由しなかったのは兄のマイケルが父の資産を上手く運用したからなのです。

Gertrude_stein_2Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Gertrude Stein」, 1906
左の絵は妹のガートルード・スタイン(1874-1946)。仮面でもつけたようなこの肖像画、当時は似ていないと批判されたようですが、ピカソは言いました。「そのうち彼女のほうが絵に似てくるさ。」

当時の新進芸術家たちはこの兄妹のお陰で財政的な心配をすることなく作品の制作に打ち込むことができたのです。

ガートルードが16歳の時父が亡くなりました。そのため彼女は一時、母の実家があったボルチモアに預けられます。ここでガートルードはクラリベルとエッタのコーン姉妹(マチスのパトロン)と親交を結び、芸術に対する眼を養ったようです。

1903年ガートルード29歳の時、彼女は美術批評家の兄レオ・スタインとともにパリで暮らし始めます。二人は現代画家の作品を中心に収集を行い、やがて「洗濯船」の常連となります。

Photo
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Gertrude Stein」, 1906
ばらの時代、ピカソは人生の分岐点となるような出会いをいくつか経験します。
1905年気鋭の小説家アポリネールとの出会い。1906年スペインのゴソルで見たスペイン原始美術との出会い。それにマチスとの出会い。

1907年は特筆すべき年でした。トロカデロの人類博物館で見たアフリカの彫刻・仮面から得たインスピレーション、セザンヌ回顧展で見た巨匠の作品群からは大きな衝撃と深い啓示を受けました。こうしてキュビズムの起こりとなる作品が生まれます。ニューヨーク近代美術館蔵の「アヴィニヨンの娘たち」。説明するまでもなくピカソが26歳で制作したこの作品は絵画の歴史を塗り替えるような決定的作品でした。

Nude_in_armchairPablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Nude in an Armchair」, 1909-1910
1908年から本格的なキュビズム作品群が生まれてきます。「アヴィニヨンの娘たち」は当初仲間内でも不評でしたが、ジョルジュ・ブラックは彼の作品に共鳴していました。

幸運だったことはドイツの画商カーンヴァイラーの歓心をかったこと。1909年以降彼からの支援を受けられるようになったのです。経済的に余裕が出てきたことで、この年の9月ピカソは「洗濯船」を出て、クリシー街の大きなアパートに移り住みました。生活の変化は心まで変化させるもの。1911年ピカソは最初の恋人フェルナンド・オリビエと別れました。

2番目の恋人はマルセル・アンヴェール(エヴァ)という女性でした。ピカソは本当に彼女に夢中になりました。しかし残念なことにこの幸せは長く続きませんでした。1916年ピカソが35歳の時エヴァは病に倒れ急死してしまうのです。

1917年ピカソはローマに渡ります。ローマの古典的彫像や建築物はピカソの画風に影響を与えました。古典的主義的表現の絵が増えていきます。

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Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Mandolin, Fruit Bowl, Bottle, and Cake」, 1924
ピカソはローマで知り合った踊り子のオルガ・コクローヴァと結婚し、1921年40歳にして父親となります。
1920年代のピカソの画風を称して「新古典主義時代」と呼ぶそうですが、そういった写実的な絵以外にキュビズム的な絵も描きましたし、上のようにキュビズムと古典主義をうまくミックスしたような絵も生み出しました。

古典主義を離れ、シュールレアリスムに接近した1925年頃、ピカソはオルガとの結婚生活に負担を感じ始めていたそうです。

そして1926年45歳のピカソは、28歳も年下の娘マリー=テレーズ・ヴァルテルに恋したのです。

The_dreamer
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「The Dreamer」, 1932
1932年はピカソがマリー=テレーズ・ヴァルテルと住み始めた年。ピカソは51歳でした。

時代によって画風を変え、表現形式を変えるピカソ。彼は自分の人生においてやってきた全てのことは「現在」のためであったと言います。何かを表現しようとする際、過去も未来も考えず、「現在」であり続けようと希望をもってやっていたと言います。

Dying_bull
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Dying Bull」, 1934
1934年は「闘牛」の年。「闘牛」の連作を手掛けます。ピカソ53歳。

ピカソは自分の作品を、「ピカソなくしては発見しえないもの」を見出してもらうためのものと考えていました。

Girl_reading_at_a_table_2Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Girl Reading at a Table」, 1934
ピカソにとって「探すことは絵画にとって何も意味しない」のだそう。重要なのは「見出す」ことだと言います。

言いかえれば「気づく」こと。普段何気なく見ている風景、漫然とこなしている仕事、大切なはずだがなおざりにしがちな家族。何か忘れていることはないでしょうか?

「画家は両目を同じに描くべきではない。両目は同じではないからである。」

「こんなにも豊かなものをもたらしてくれる人生に無頓着でいられようか?」

「見出す」べきこと、「気づく」べきことが人生にはいっぱいあるのかも知れませんね。

Girl_asleep_at_a_table
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Girl Asleep at a Table」, 1936
1935年マリー=テレーズが女の子を出産します。ピカソはすでに心離れていたオルガと離婚を望みますが、打算的な彼女は応じませんでした。

翌1936年はピカソの故郷スペインで内戦が起きた年(ピカソ55歳)。

スペインは1931年にブルボン王朝が倒れ共和政体になっていましたが、まだ生まれたばかりの政体は貧弱で内輪もめが多く、民衆の支持を獲得できないでいました。

1936年2月の共和政内閣は社会主義的理念に基づき貧困層救済のため資本家を弾圧。教会財産も没収するなどかなり思い切った政策をとりました。そのため反動が起きます。

7月そんな内閣に対してカナリア諸島に左遷されていたフランコ将軍が反乱を起こします。不満を抱えた地主、資本家やカトリック教会を味方にし共和国軍と戦います。これがスペイン内戦です。

フランコ将軍はドイツ、イタリアといったファシスト国家の援助も得ていきました。
1937年4月26日、スペイン北部バスク地方の町ゲルニカがドイツ空軍の爆撃を受け、罪もない2千人の市民が虐殺されました。内戦において何ら重要な役割を果たしていなかった田舎町の爆撃にピカソは憤慨します。1ヶ月後大作「ゲルニカ」を完成させ抗議しました。

Man_with_lollipop
Pablo Picasso, Spanish, 1881-1973, 「Man with Lollipop」, 1938
1938年スペインではまだ内戦が続いていましたが、共和国軍は次第に劣勢を余儀なくされていきました。
つねに「現在」に関心のあったピカソは異国の地にありながら故郷の行く末に無頓着ではいられませんでした。戦争の悲惨さを世界へ向けて「気づかせる」ことを考えたに違いありません。反ファシズムの願いむなしく1939年スペインはフランコ独裁政権の手におちます。

Redgreen_and_violetyellow_rhythms
Paul Klee, German, 1879-1940, 「Redgreen and Violet-Yellow Rhythms」, 1920
パウル・クレー(1879-1940)はスイスで生まれドイツで活躍した画家。音楽一家の息子が幼いころ熱中したのはバイオリン。11歳でオーケストラに籍を置くほどの腕前でした。
見てください!今にも暖かい音色が聞こえてきそうな絵だと思いませんか?この絵はクレーが40歳の頃の作品ですが、どのようにしてこうした作風が生まれたのでしょう。

クレーに絵を教えたのは母方のおばあちゃんでした。彼の絵の才能にまつわる言い伝えの中に、幼少のころ自分の描いたお化けの絵が本物に見えてきて、思わず姉の影に隠れた、というものがあります。

音楽、絵画、詩作といずれの分野でも卓越した才能をもっていたクレーですが、画家への道を歩むことにしました。音楽家の道を進むには「あまりにも才能が欠けていると感じた」からだそう。

1898年クレー18歳。クレーは絵を学ぶためドイツ・ミュンヘンに出ます。当時ミュンヘンはパリと並ぶヨーロッパ二大芸術都市のひとつでした。パリにするかミュンヘンにするか迷ったそうですが、自分の好みを重視してミュンヘンを選んだと語っています。当時ミュンヘンでは「分離派」が伝統的芸術に強く抵抗しており、前衛的作家が活躍する土壌が用意されていました。2年後彼はミュンヘンの医者の娘でピアニストだったリリー・シュトンプと知り合い、更に6年後結婚。その1年後には一人息子に恵まれました。

1900年代。20代のクレーは冒頭のような彼独自の作風では描いておらず、注目もされていませんでした。

Oriental_pleasure_garden
Paul Klee, German, 1879-1940, 「Oriental Pleasure Garden」, 1925
1910年代。30代はクレーの作風を決定づける時代でした。1911年はドイツ美術史において重要な年で、それまで新ミュンヘン美術家協会会長であったワシリー・カンディンスキーが「青騎士」グループを立ち上げます。この前衛的グループとの交流がクレーを啓発していきます。

更に重要だったのは1914年のチュニジア旅行でした。ドラクロワにも影響を与えた北アフリカの強烈な陽光と多才な色彩はクレーを魅了しました。

「色が私をとらえた。私はもはやこれをつかもうと手をのばす必要がない。色彩が私を永遠にとらえたからだ。至福の瞬間が私に啓示をもたらした。私と色はひとつになった。私は画家なのだ。」

ほぼ同時に起きた第一次世界大戦も彼に影響を与えました。一緒にチュニジアを歩いたアウグスト・マッケ、そして「青騎士」グループで知り合った親友フランツ・マルクが相次いで戦死したのです。この知らせはクレーを打ちのめしました。破滅と崩壊のイメージが彼を支配します。

こうした経験が作風に影響を与え、彼は徐々に世間から評価されるようになっていきました。そして1920年バウハウス(1919年ドイツワイマール市に設立された美術および建築家のための学校)に教師として招へいされます。

May_picture
Paul Klee, German, 1879-1940, 「May Picture」, 1925
1920年代。クレーの40代はバウハウス時代。
バウハウスは1933年ナチスドイツによって閉鎖に追い込まれるのですが、それまでの間クレーはここで教鞭をとりました。バウハウスは新世代のデザイナーや建築家を育てることを目的に設立された実験的な学校で、驚くほど自由で創意に富んだ教育を行っていました。

ドイツの政治情勢がおかしくなる中1933年クレーは故郷スイスへ戻ります。2年後彼は強皮症におそわれ7年後に世を去りました。

Photo_2
Paul Klee, German, 1879-1940, 「Still Life」, 1927
クレーの人となりを表す言葉を探してみました。
「大きい人ではなかった。むしろずんぐりしていたが、きゃしゃで繊細な感じだった。最も印象的だったのは彼の眼だった。離れた両眼が広い額の下にあり、預言者の目を思わせた。」

「短い黒いひげと髪、静かな情熱的な黒い眼、あなたは大体、東洋人のようにあまり口をきかない、礼儀正しい人でした。」

そして彼はクリムトやピカソとなどと違い、女遊びをするような人ではありませんでした。結婚生活も幸せに満ちたものだったようです。

「クレーはリリーとこの上なく深く心でつながっていました。そして多分、彼女は夫と対照的な性格であったがために、彼は一生の間、どんな状況においても彼女の味方でした。彼女はいきいきとした、快活な、たくましいミュンヘン子であり、一方彼は繊細で、物静かな、超然とした画家でした。

Striken_city_2Paul Klee, German, 1879-1940, 「Stricken City」, 1936
クレーが名声を高めていった1920年から1930年代前半のバウハウス時代、ドイツは第一次世界大戦の敗戦に伴う多額の賠償金によりひどい経済不況にありました。

1923年賠償金支払いの遅延を理由にフランスがドイツの工業地帯(ルール地方)を占領します。この時ミュンヘンである事件がおきました。アドルフ・ヒトラーらを指導者とした「ドイツ闘争連盟」が情けないワイマール帝国を打倒しようとデモを行ったのです。これは鎮圧されヒトラーは投獄されますが、これはミュンヘン一揆と呼ばれました。

1923年から24年にかけては天文学的なインフレが起き、街は大量の失業者で溢れかえります。

1925年ヒトラーは釈放され、投獄を免れた他の幹部も恩赦を受け帰国。彼らは再度結託します。これが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)です。

1929年世界恐慌が発生し、ドイツ経済は壊滅的な打撃を受けます。ドイツ国民のほとんどが失業者となりました。それまで民主主義の名のもと小党が乱立していたドイツワイマール帝国でしたが、もはや民主政治を信用するものは誰もいなくなりました。

こうして圧倒的指導者を待望する土壌が用意されました。ナチスは1932年第一党へ。翌1933年ヒトラーはドイツ帝国の首相へと登りつめていきます。

The_rhine_at_duisburg
Paul Klee, German, 1879-1940, 「The Rhine Duisburg」, 1937
晩年のクレーは自らの病魔と悲しい歴史的事件を反映して陰鬱な作品が多くなっていきました。

Anna_zborowskaAmedeo Modigliani, 1884-1920, 「Anna Zborowska」, 1916
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)です。細長い顔と首で女性を描く個性的な肖像画家。パパもママも大好きな画家です。

彼はイタリアの港町リボルノで生まれましたが、ユダヤ人。頽廃的芸術家で容姿に恵まれながらも酒と麻薬に溺れ、36歳の若さで病死(結核性髄膜炎)しました。

父は実業家でしたが、アメデオが生まれた年に破産。母エウジェニアによって育てられます。エウジェニアは偉大な哲学者スピノザの血統だとか。そのためかどうか、紅茶を飲んだり、文学を好んで翻訳をするなど当時リボルノの町ではちょっと異質な女性ではありました。

アメデオのことを「デド」と呼んで可愛がったエウジェニアは息子をことのほか甘やかして育てたということです。

彼がパリに出てきたのは1906年21歳の時。貧しさとユダヤ人であることの疎外感は彼をアルコール漬けにしていきました。しかし1年後「セザンヌ回顧展」で見た巨匠の独創的なフォルムにモディリアーニは自分の方向性を見出します。

1908年には早くも特徴的な彼独特のスタイルが見られるようになり、画家としての個性が現れ始めました。

Girl_in_a_sailors_blouseAmedeo Modigliani, 1884-1920, 「Girl in a Sailor's Blouse」, 1918
当初彫刻家を志していたモディリアーニは1909年から彫刻作りに没頭します。彼の作品はほとんどが頭部の彫像。当時接したアフリカ・オセアニア民族彫刻の影響でしょうか。細長い顔と首を特徴とする“あのスタイル”を彫ったのです。

1914年南アフリカの女性ジャーナリスト、ベアトリス・ヘースティングスが彼に心を奪われます。この女性が心を奪われたのは彼の作品ではなく、才能でもなく、容姿だったとか。二人の関係はお互いを疲弊させました。

1915年ころ、資金不足と粉じんによる健康被害もあってモディリアーニは彫刻家の道をあきらめます。このことは彼の精神状態を不安定にさせました。

麻薬に溺れたモディリアーニはベアトリスに対し暴力をふるうようになります。わがままで気が強い彼女は負けていませんでした。酒や麻薬もやった彼女はある夜、モディリアーニの急所をしこたま殴打し、彼を失神させてしまいます。ベアトリスが完全な“アル中”患者になったころ、二人の関係は終わります。

Jeanne_hebuterne
Amedeo Modigliani, 1884-1920, 「Jeanne Hebuterne」, 1919
1917年の7月。モディリアーニは19歳の優秀な画学生ジャンヌ・エビュテルヌと出会います。彼はジャンヌをモデルに肖像画をたくさん描き、彼女は彼の娘を出産しました。

ベアトリスと違い内気で献身的な彼女はモディリアーニの暴力にも黙って耐えるような女性でした。1920年モディリアーニが亡くなった後、2番目の子供を身ごもっていたにも関わらず、自宅の5階から身を投げて自殺してしまったのです。

メトロポリタン美術館。可愛い娘たちと作家あてクイズをしながら見て歩きました。ずいぶんとたくさんの画家の名前を覚えて嬉しそうだった木の実とちびちび。パパもすっごく楽しかったよ。

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