ファイブ・ポインツ

1928年、大恐慌吹き荒れる前年にハーバード・アズベリーの著した『ギャング・オブ...

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小さな赤い灯台

ジョージ・ワシントン・ブリッジのたもとにある小さな赤い灯台。初めに行った時は遠く...

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ナイトミュージアム

NYにある自然史科学博物館(American Museum of Natural...

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硫黄島記念碑 (Washington DC)

ボルチモア滞在中、DCのアーリントン国立墓地にある「海兵隊戦争記念碑」へ2度行き...

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ありがとう! ヤンキースタジアム!!

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2008年春。ぼくたち家族はここブロンクスのヤンキースタジアムでを4試合を観戦しました。もちろんヤンキースのホームゲームとしてです。
4月 6日 対タンパベイ・レイズ L 3-6 (ホームゲーム)
5月 4日 対シアトル・マリナーズ W 6-1 (ホームゲーム)
5月19日 対ニューヨーク・メッツ L 2-11 (ホームゲーム)
5月22日 対ボルチモア・オリオールズ W 8-0 (ホームゲーム)

今シーズンは現ヤンキースタジアム最後のシーズンでもありました。

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ぼくたちが暮らしていたのはアッパー・イーストの60丁目でしたから、地下鉄59丁目の駅から緑ライン4番で北に上って行きます。

緑ライン5番ではこの駅に止まりません。気をつけて下さい。一度それに乗ってしまい、ひと駅先まで行ってしまったことがありました。木の実に怒られました。

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地下鉄といってもブロンクスでは地上、というか鉄橋の上を走っていますから、車両内からは球場がよく見えます。161丁目駅に着いたらここ(写真上)に降り立つはず。

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ヤンキースグッズやスポーツバーが立ち並んでいて自然とワクワクしてきます。子供たちもお店に入りたくてウズウズしています。

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ヤンキースタジアムがここブロンクスに来たのはいつ頃で、どういったいきさつがあったのでしょう?ちょっと興味が湧くところではあります。

ナショナル・リーグがニューヨーク・ゴッサムズ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)をはじめとする8球団で発足したのが1876年のこと。アメリカン・リーグはそれに遅れること25年、1901年にやはり8球団で発足します。現在のニューヨーク・ヤンキースはこの時発足したボルチモアの球団を買収して1903年にニューヨークへやってきました。当時の球団名は「ニューヨーク・ハイランダーズ」。

1903年は第1回のワールドシリーズが行われた年です。

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ニューヨーク・ハイランダーズが本拠を構えたのはマンハッタン165丁目のブロードウェイ。Sugar Hillが150丁目あたりで、Morris Jumel Mansionが160丁目。どちらもマンハッタンの地形としては高台でした。165丁目のブロードウェイというと、ちょうどコロンビア大学のメディカルセンターのある場所でしょうか。球場名はその名も「ヒルトップ・パーク」。

要するにチーム名は本拠地が高台にあったことに因んでつけられたもの。少々安易な感じが否めません。案の定万年最下位球団だったようです。

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当時の大リーグに君臨していたのが同じマンハッタンに居を構えるニューヨーク・ジャイアンツ(ゴッサムズから改名)。ジャイアンツの本拠地はセントラルパークの北110丁目にあった「ポロ・グラウンズ」。大勢の観客で賑わっていたそうです。

1905年第2回のワールドシリーズに出場したニューヨーク・ジャイアンツはフィラデルフィアのチームをやぶって優勝しました。

1911年この球場は火事で焼けてしまうのですが、2代目「ポロ・グラウンズ」が建てられたのが155丁目の8番街、ここは現ヤンキ―スタジアムのすぐ近く。ハーレムリバーを挟んで向いの場所です。なぜこの話をするかというと、ヤンキースは「ポロ・グラウンズ」を本拠地にしたことがあるから。

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1911年本拠地を火事で失ったニューヨーク・ジャイアンツはハイランダーズの本拠地「ヒルトップ・パーク」を借りました。このことでジャイアンツとハイランダーズの交流が盛んになったとか。

1913年お荷物球団のハイランダーズは人気球団ジャイアンツのおこぼれにあずかろうと、今度は逆に「ポロ・グラウンズ」を両球団の共用本拠地として使わせてもらえないかと頼みます。ジャイアンツは2年前の借りを返すはからいだったのでしょうか、この相談は受理されました。

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「ポロ・グラウンズ」のあった155丁目の8番街といえば、ちょうどマンハッタンの高台から降りてきた辺り。本拠地が高台でなくなっては「ハイランダーズ」というのもおかしな話。この年(1913年)球団名を「ニューヨーク・ヤンキース」に改名しました。その後10年間、ヤンキースは「ポロ・グラウンズ」を本拠地とするのです。

「ヒルトップ・パーク」は1914年に取り壊しが行われ、その役目を終えます。

1920年ヤンキースにボストンから偉大な選手がやってきました。ベーブルースです。彼がこの年にあげた成績は打率.376、本塁打54本、打点137と驚異的なものでした。ルースの打撃にニューヨーカーが度肝を抜かれたのはブロンクスではなく、マンハッタン155丁目だったのです。

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1921年ルースの成績は更に凄い。打率.378、本塁打59本、打点171。そんな打点の数聞いたこともありません。ニューヨーク、いえアメリカ中の野球ファンはルースのバッティングに魅了されました。たちまち「ポロ・グラウンズ」は全米の視線を浴びることになります。この年ヤンキースはアメリカンリーグを初めて制しました。

1921年の第18回ワールドシリーズはニューヨーク・ジャイアンツ対ニューヨーク・ヤンキースのNY対決でした。(ジャイアンツが優勝)

1922年の第19回ワールドシリーズもジャイアンツ対ヤンキースのNY対決。ジャイアンツが2年連続優勝して面目を保ちましたが、人気ではかなわなくなりつつありました。

ニューヨーク・ジャイアンツの関係者は面白くありません。そもそも球界の盟主といえばジャイアンツであったはず。なのに今やその人気は逆転してしまい、面目はまるつぶれです。ジャイアンツはヤンキースに対して立ち退きをせまったのでした。

こうしてNYYの本拠地はマンハッタン155丁目から転居。新球場をマンハッタンに求めるには建設費が高くつきすぎるため、選ばれたのはブロンクスの地。現在の場所でした。

151th
でもこの場所、「ポロ・グラウンズ」から見てハーレム川を挟み対岸だったのです。あてつけにもほどがあると思いませんか?上の写真はマンハッタンの155丁目駅からヤンキ―スタジアムを撮影したもの。スタジアムの前に見えるMacombs Dam橋はハーレムリバーに架かりマンハッタンとブロンクスを結んでいます。

ジャイアンツ関係者がほぞを噛む気持ちで見つめたヤンキ―スタジアムはこんな感じだったのでしょうか。

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左に見えるのがMacombs Dam橋で、右に見えるのが現ヤンキースタジアム。

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上の写真は逆にヤンキースタジアム(ブロンクス)からマンハッタンに向けてとった写真。画面中央に小さく写っている連続した3棟の茶色いアパートはベーブルースが住んでいた高級アパート。場所はSugar Hillと呼ばれるところです。

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マンハッタン155丁目の高架下から見上げたベーブルースの高級アパート。

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ブロンクスへお客をもってくるには地下鉄が必須でした。地下鉄の存在がこの地に新球場を建設させたといって過言じゃないそうです。

1923年4月18日開場のヤンキ―スタジアムには7万人以上が集まったといいます。ゲームはNYY vs. BOSで試合は4対1、ヤンキースが勝利しました。この試合でホームランをかっ飛ばしたルースはこの年打率.393、本塁打41本、打点131の成績を残し、ヤンキースは3年連続でリーグを制覇します。

第20回ワールドシリーズは3年連続でジャイアンツ対ヤンキースの顔合わせでした。ヤンキースは3度目の正直でジャイアンツを撃破。念願のワールドシリーズ初優勝を飾ったのです。

この年もう一人の偉大な打者がヤンキ―スタジアムで新人としてデビューしました。彼の名はルー・ゲーリッグ。この年は13試合に出場しただけでしたが。

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1926年からヤンキースは3年連続でアメリカン・リーグを制覇。1927、1928年は2年連続でワールドシリーズを制覇します。ヤンキースが2度目の世界一に輝いた1927年、24歳のルー・ゲーリッグがブレイクしました。

1927年ルー・ゲーリッグは打率.373、本塁打47本、打点175という驚異的な成績を残します。ルースはこの年打率.356、本塁打60本、打点164ですから、打率と打点ではルースを上回ったのです。

3番ベーブ・ルース、4番ルー・ゲーリッグのヤンキース打線は別名「殺人打線」と呼ばれました。

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ルー・ゲーリッグの足跡をちょっとだけ見てみます。
1927年:155試合、打率.373、本塁打47本、打点175 (ワールドシリーズ優勝)
1928年:154試合、打率.374、本塁打27本、打点142 (ワールドシリーズ優勝)
1929年:154試合、打率.300、本塁打35本、打点126
1930年:154試合、打率.379、本塁打41本、打点174
1931年:155試合、打率.341、本塁打46本、打点184
 とにかく凄すぎる!とくに1931年の打点184はいまだもって破られていません。

1932年:156試合、打率.349、本塁打34本、打点151 (ワールドシリーズ優勝)
1933年:152試合、打率.334、本塁打32本、打点139
1934年:154試合、打率.363、本塁打49本、打点165
 このシーズン終了後にベーブ・ルースがヤンキースを退団しました。

1935年:149試合、打率.329、本塁打30本、打点119
1936年:155試合、打率.354、本塁打49本、打点152 (ワールドシリーズ優勝)
 この年ジョー・ディマジオがヤンキースに入団しました。

1937年:157試合、打率.351、本塁打37本、打点159 (ワールドシリーズ優勝)
1938年:157試合、打率.295、本塁打29本、打点114 (ワールドシリーズ優勝)

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1938年のシーズン途中からルー・ゲーリッグは体調不良を感じ始めました。
「なぜかわからないが、何か頑張れる気がしない・・・・。」

若くして難病、筋委縮性側索硬化症を発症してしまったのです。
1939年5月2日、それまで続いていた2130試合連続出場の大リーグ記録は途絶えることとなり、その2年後彼は病気の末期症状である呼吸筋麻痺を呈して亡くなったのです。まだ37歳でした。

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ベーブ・ルースとルー・ゲーリッグの居なくなったヤンキースを支えたのがジョー・ディマジオ中堅手。

1936年:138試合、打率.323、本塁打29本、打点125 (ワールドシリーズ優勝)
 ルーキーにしていきなりこの活躍。21歳の年のことです。

1937年:151試合、打率.346、本塁打46本、打点167 (ワールドシリーズ優勝)
1938年:145試合、打率.324、本塁打32本、打点140 (ワールドシリーズ優勝)
1939年:120試合、打率.381、本塁打30本、打点126 (ワールドシリーズ優勝)
 ヤンキースの黄金時代の中心選手でした。

1940年:132試合、打率.352、本塁打31本、打点133
1941年:139試合、打率.357、本塁打30本、打点125 (ワールドシリーズ優勝)
 この年に達成した56試合連続安打はいまだに破られていない不滅の大記録。

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ディマジオの記録した56試合連続安打は後世破られることのない記録だという分析結果を出した学者がいるとか。攻走守に優れた身体能力の高い選手だったそう。外野の守備では急いでいるように見えないのに、するどい打球に簡単に追いついてしまう、そんな選手だったそうです。

1946年:132試合、打率.290、本塁打25本、打点95
1947年:141試合、打率.315、本塁打20本、打点97 (ワールドシリーズ優勝)
1948年:153試合、打率.320、本塁打39本、打点155
1949年:  76試合、打率.346、本塁打14本、打点67 (ワールドシリーズ優勝)
1950年:139試合、打率.301、本塁打32本、打点122 (ワールドシリーズ優勝)
1951年:116試合、打率.263、本塁打12本、打点71 (ワールドシリーズ優勝)
 1943~1945年は兵役のためプレーすることができませんでしたが1946年に復帰。
 その後4度、通算9度のワールドシリーズ制覇に貢献しました。

引退後1954年にマリリン・モンローと結婚しました。

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1950年代はヤンキースが最も強かった時代。1949年から1958年までの10年間、アメリカン・リーグチャンピョンの座から降りたのは一度だけ。そのうち7度ワールドチャンピオンに輝きました。この時代は超有力選手を揃えた1930年代とは違ってケーシー・ステンゲル監督の力量に負うところが大きかったそうです。

ジョー・ディマジオの去ったヤンキースを支えたのはヨギ・ベラ捕手。ヨギ・ベラは5連覇の始まる前年1948年にレギュラーポジションを獲得しました。

1946年:7試合
1947年:83試合
1948年:125試合、打率.305、本塁打14本、打点98
1949年:116試合、打率.277、本塁打20本、打点91 (ワールドシリーズ優勝)
1950年:151試合、打率.322、本塁打28本、打点124 (ワールドシリーズ優勝)
1951年:141試合、打率.294、本塁打27本、打点88 (ワールドシリーズ優勝)
1952年:142試合、打率.273、本塁打30本、打点98 (ワールドシリーズ優勝)
1953年:137試合、打率.296、本塁打27本、打点108 (ワールドシリーズ優勝)
1954年:151試合、打率.307、本塁打22本、打点125
1955年:147試合、打率272、本塁打27本、打点108 (ア・リーグ優勝)
1956年:140試合、打率.298、本塁打30本、打点105 (ワールドシリーズ優勝)
1957年:134試合、打率251、本塁打24本、打点82 (ア・リーグ優勝)
1958年:122試合、打率.266、本塁打22本、打点90 (ワールドシリーズ優勝)
1959年:131試合、打率.284、本塁打19本、打点69
1960年:120試合、打率.276、本塁打15本、打点62 (ア・リーグ優勝)
1961年:119試合、打率.271、本塁打22本、打点61 (ワールドシリーズ優勝)
1962年:  86試合、打率.222、本塁打10本、打点35 (ワールドシリーズ優勝)

ヨギはワールドシリーズを13度戦い、10度のワールドチャンピオンに輝きました。大リーガーの最多記録と言われています。

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この黄金時代を支えたもう一人の伝説的選手はミッキー・マントル。1951年19歳でデビューした彼はこの年96試合に出場。以後メキメキと頭角を現しました。メジャー史上最高のスイッチヒッターと賞賛されています。

1951年:96試合、打率.267、本塁打13本、打点65 (ワールドシリーズ優勝)
1952年:142試合、打率.311、本塁打23本、打点87 (ワールドシリーズ優勝)
1953年:127試合、打率.295、本塁打21本、打点92 (ワールドシリーズ優勝)
 この年の4月に彼の放った打球が172mの飛距離を出したそうです。
 大リーグ史上最長記録。

1954年:146試合、打率.300、本塁打27本、打点102
1955年:147試合、打率306、本塁打37本、打点99 (ア・リーグ優勝)
1956年:150試合、打率.353、本塁打52本、打点130 (ワールドシリーズ優勝)
 この年ミッキー・マントルは三冠王に輝きました。

1957年:144試合、打率365、本塁打34本、打点94 (ア・リーグ優勝)
1958年:150試合、打率.304、本塁打42本、打点97 (ワールドシリーズ優勝)
1959年:144試合、打率.285、本塁打31本、打点75
1960年:153試合、打率.275、本塁打40本、打点94 (ア・リーグ優勝)
1961年:153試合、打率.317、本塁打54本、打点128 (ワールドシリーズ優勝)
1962年:123試合、打率.321、本塁打30本、打点89 (ワールドシリーズ優勝)
1963年: 65試合、打率.314、本塁打15本、打点35 (ア・リーグ優勝)
1964年:143試合、打率.303、本塁打35本、打点111 (ア・リーグ優勝)
 マントル選手もワールドシリーズを12度戦い、7度のワールドチャンピオンに輝きました。

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1964年のシーズン終了後ヤンキースはCBSによって買収されました。

しかしドラフト制度の導入と、黒人選手への門戸開放が災い(ヤンキースは黒人選手の採用が遅れた)し、以降ヤンキースは厳しい冬の時代を迎えることになります。次のワールドシリーズ出場まで11年間見放されました。「あのお方」が登場するまでは・・・・。

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次の時代を作ったのは野球選手ではありませんでした。
悪評高いジョージ・スタインブレナー。通称“ビッグ・ボス”。現ヤンキースのオーナーです。
1973年CBSから1000万ドルでNYYを買収した彼は、お金にものを言わせて他球団の有望選手をかき集めるという方法でチーム再建を図ります。

同時に老朽化していたヤンキースタジアムの改装も指示。1973年シーズン終了後に旧スタジアムはいったん取り壊しが行われ、1976年に新スタジアム(現在のスタジアム)が開場するまでの2年間メッツのシェイスタジアムを借りました。

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改装ヤンキースタジアムは1976年4月15日にオープン。「ルースが建てた家」は「スタインブレナーが建て直した家」となりました。この新球場で戦った一年目、ヤンキースは久々にアメリカンリーグを制しました。(ワールドシリーズではシンシナティ・レッズに4連敗と惨敗)

翌1977年スタインブレナーはOAKの英雄黒人レジー・ジャクソン外野手の引き抜きに成功し、この年ヤンキーは実に15年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げたのです。

1977年:146試合、打率.286、本塁打32本、打点110 (ワールドシリーズ優勝)
1978年:139試合、打率.274、本塁打27本、打点97 (ワールドシリーズ優勝)
1979年:131試合、打率.297、本塁打29本、打点89
1980年:143試合、打率.300、本塁打41本、打点111
1981年:  94試合、打率.237、本塁打15本、打点54 (ア・リーグ優勝)
彼のNYY在籍5年間の成績。とりわけ凄かったのが1977年のワールドシリーズ。第5戦の最終打席から第6戦の第3打席まで4打席連続HR。これはいまだ破られることのない大記録です。この活躍で「Mr. October」の称号を手にしました。

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レジー・ジャクソンは野球選手としての実力は申し分ありませんでしたが、喧嘩っ早く、常に周囲と問題を起こす選手だったそうです。
「スターになるためにNYに来たんじゃない。もともとスターなのさ。」
「ワールドシリーズが好きじゃない唯一の理由は、自分のプレーが見れないことさ。」

レジー・ジャクソンとビリー・マーチン監督の不仲は有名で、全米TV中継中にも関わらずつかみ合いの喧嘩をしました。人はこうしたヤンキースベンチの雰囲気を称して「Bronx Zoo」と呼びました。

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スタインブレナーは1981年SADのデーブ・ウィンフィールド外野手獲得に動きます。ウィンフィールドは1979年に打点王に輝いた選手でした。NYYへ移籍したその年の5月大活躍を見せ、ヤンキースを3年ぶりのリーグ優勝へ導きましたが、ワールドシリーズではLADに惨敗。ウィンフィールドは22打数1安打と大ブレーキでした。

スタインブレナーは言ったそうです。「Mr. October(レジー・ジャクソン)を手放して、Mr. Mayを手に入れてしまった・・・・。」

1981年:105試合、打率.294、本塁打13本、打点68 (ア・リーグ優勝)
1982年:140試合、打率.280、本塁打37本、打点106
1983年:152試合、打率.283、本塁打32本、打点116
1984年:141試合、打率.340、本塁打19本、打点100
1985年:155試合、打率.275、本塁打26本、打点114
1986年:154試合、打率.262、本塁打24本、打点104
1987年:156試合、打率.275、本塁打27本、打点97
1988年:149試合、打率.322、本塁打25本、打点107
1989年は背中の怪我で出場がありませんでした。そして翌1990年カリフォルニア・エンゼルスへ放出されたのです。

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スタインブレナーは札束攻勢で選手を獲得するだけではありませんでした。その厚かましさは現場にも及びます。1977年15年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたビリー・マーチン監督を1978年シーズン途中で解雇。その理由はマーチン監督が好きでなかったからです。

1978年は2年連続でワールドシリーズを制覇したにも関わらず、ボブ・レモン監督をやはり1979年シーズン途中に解雇。その後も繰り返される矢継ぎ早の監督交代劇は「売店のホットドッグが焼きあがるよりも早い」と揶揄されました。

大物選手をかき集める方法で低迷期を脱したかに見えたNYYでしたが、1981年以降は再び長い冬の時代へ。個人主義選手の集合体、オーナーのヒステリックな雑音、メディアからの痛烈な批判に晒されてチームはバラバラ。前回の冬の時代よりも事態は深刻でした。このチームが再びワールドシリーズへ駒を進めるには18年間を要します。

1990年スタインブレナーはデーブ・ウィンフィールドの移籍を有利に進めるためマフィアと接触し、ウィンフィールド側へ不利な情報を流そうとしました。これは野球界にとって忌々しき事態でした。

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ウィンフィールド事件が発覚したためスタインブレナーは2年間のオーナー資格停止処分を受けました。

オーナーの処分が決定した時、ヤンキ―スタジアムでは試合の真っ最中。場内アナウンスが事の次第を発表するや、観客は相手チーム攻撃中であったにも関わらず1分間以上にわたるスタンディング・オベーションを行ったそうです。

オーナーの我がままを聞かなくてよくなった球団はチーム編成の方針を一新。生え抜きの若手を育てて試合に使う方針としたのです。

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スタインブレナーのオーナー資格停止処分が1990年代後半のヤンキース黄金時代を作ったと言われています。1990年代前半にヤンキースのファームにいた選手が中心選手へと育ったからです。1990年にホルヘ・ポサーダとマリアノ・リベラが、1991年はアンディ・ペティットが、1992年にはデレク・ジーターがNYYへ入団していました。

1995年NYYは久々にワイルドカードでポストシーズンへ進出。翌1996年アメリカンリーグを制覇したNYYは第92回ワールドシリーズでATLを4勝2敗で退け18年ぶりのチャンピオンリングを手にしたのです。

1995年:ワイルドカード。(ディビジョンシリーズでSEAに敗北)
1996年:ワールドシリーズ優勝。(vs. ATL)
1997年:ワイルドカード。(ディビジョンシリーズでCLEに敗北)
1998年:ワールドシリーズ優勝。(vs. SD)
1999年:ワールドシリーズ優勝。(vs. ATL)
2000年:ワールドシリーズ優勝。(vs. NYM)

2001年:ア・リーグ優勝。(ワールドシリーズでARIに敗北)
2002年:ア・リーグ東地区1位。(ディビジョンシリーズでANAに敗北)
2003年:ア・リーグ優勝。(ワールドシリーズでFRIに敗北)
2004年:ア・リーグ東地区1位。(リーグチャンピョンシップでBOSに敗北)
2005年:ア・リーグ東地区1位。(ディビジョンシリーズでLAAに敗北)
2006年:ア・リーグ東地区1位。(ディビジョンシリーズでDETに敗北)
2007年:ワイルドカード。(ディビジョンシリーズでCLEに敗北)

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2008年成績:アメリカンリーグ東地区3位。何とも寂しい成績。14年ぶりにポストシーズンを前にして全日程を終了してしまいました。

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ヤンキースタジアムのラストゲームは9月23日(アメリカ時間で9月22日)ボルチモア・オリオールズ戦。試合は7-3でNYYが勝利。最後の花道を飾ることができました。でも本当は最後のポストシーズンを見守りたかったでしょう・・・。

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多くの歴史を見ていたヤンキースタジアム君!本当にお疲れ様。そしてありがとう。僕たち家族にかけがえのない思い出をプレゼントしてくれました。

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ブロンクス161丁目駅から見た建設中の新スタジアムです。2009年のMLB開幕に備えて準備中。

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今度はこっちに見に来ようね。ママ!

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